草木が一斉に芽吹く日本の春。ここ葉山は、梅の香りがまだ漂っている頃から、色とりどりのツツジ達が見事な合奏を始めます。特に葉山小学校や役場周辺、私たちが住んでいる伏見台の競演はドラマチックです。それらの3楽章の最中に、凄まじい勢いで桜たちがティンパニを鳴らし出します。小鳥たちも、ここぞとピッコロを奏で、時には矢を射るような鋭く長い稲妻のような鳥の声も添えられ、それら全体を悠々と見下ろすトンビの姿も加わり、春の祭典は佳境を迎えます。
我が家の庭も、初春のコスモス,ノースポール,芝桜,リナニア,ゼラニウム,ラベンダーに続き5月に入ると、門柱を囲むツツジの後、一斉にスズランやサツキ群が声を上げます。仙元山(せんげんやま)も若緑の樹林の輪が花火の打ち上げのごとく、次々に主張を開始します。正に春爛漫“生の響宴”です。私は、その濃い香りにどっぷりとつかり、富士山に向かって“幸せだぁ~”を繰り返すのです。
やがて、よく通る黄色い声の群がフェイドインし、門前を通り過ぎ仙元山に登って行きます。この底抜けに元気な合唱隊は、初ピクニックに来た新小学1年生達。この光景は、今は思春期の息子を持つ母となった娘(奈夕)が小学生だった時から変わっていません。
我が家は葉山小学校から階段を110段上ったハイキングコースの真ん中に位置しているのです。
三女の奈夕が生まれてから新堀音楽幼児園の時代まで、新宿に近いマンションに住んでいました。年齢の大分離れた姉妹たちで、長女が幼少の頃は都心でも、横道は舗装されていない事が多く、阿佐ヶ谷の庭からも山を見ることができました。次女の時代(南荻窪)も、緑のある土地で、それなりに外で遊ぶことが出来ました。
しかし三女の時は、いっそう都心のマンションに転居した事もあったのですが、日本の四季を感じられる自然は周りになく、ボール投げは駐車場の隙間でやっと出来るかという有様で、外で遊ぶ事もままならない状態でした。また私もマンションでは改築が思うようにできない事などに不満を持っていました。一方、秋田県出身のワイフは都会が大好きで、毎晩自宅から新宿・高層ビルの夜景を楽しんでいました。そのワイフを何とか説得して、娘の小学校への入学を機会に、海の見える葉山の一戸建てに引っ越したのです。
以前は砂利道さえ怖がって歩けなかった娘は、葉山で暮らすうちに色黒の太陽の子に変身!小学校から110段を上って帰宅するなりランドセルを放り出し、再び校庭にすっ飛んで行くというのが日常になりました。この当時も、学校のいじめ問題は話題になっていたのですが、娘のあまりの逞しさに父母会で、ワイフは“奈夕は、他の子たちをいじめていませんか~?”と先生に伺う始末。
今考えると、小学1年生のスタートが自然の芽生えの季節であり、それを全身に受ける環境にできた事は、本当に良かったと思います。
私の生まれた日も4月17日で芽生えの季節です。今年はこの季節を人生で迎えた86回目であり、音楽院を創立してから63回目を迎え、そして国際新堀芸術学院の新入生をやはりこの時期に迎えました。
私は文化学園大学杉並中学校・高等学校で教諭として7年間勤務し、続いて国立音楽大学の講師として25年間、ハワイ国際大学教授、国際新堀芸術学院学長として現在まで、ずっと4月に新入生を迎え続けてきました。
毎年、春に新入生を迎える度にワクワクします。これが9月であったならば、これほどの新鮮さや期待感を感じないかもしれません。4月の入学は、草木が芽吹き、新しい始まりを予感させ、希望に満ち、生きものの自然なスタートのリズム=右脳の機能(感受性)と合致しています。
世界的に見れば確かに9月の入学が主流です。それに日本が合わせるメリットもあるかもしれません。また、それに加えて今回は、感染症拡大防止による授業の足踏みの修正にも必要かもしれません。
日本の歴史を振り返ると…、明治以前、寺小屋で学んでいた時代に入学式は存在せず、学べる時に寺小屋に行って学ぶという体制でした。それが明治維新により西洋の文化が取り入れられるようになり、教育も西洋にならい9月入学が主流となりました。
ところが、明治19年(1886年)に国の会計年度が3~4月に行なわれるようになります。これは、日本の農家が秋に米を収穫して、それを現金にして納税されてから、国が予算編成をするため、4月にした方が都合がよいからでした。これに合わせて、学校運営に必要なお金を政府から調達する文部省=学校も4月からの開始・入学に変更されたのです。
事実を知れば、卒業・入学が、桜の季節に合わせてという優雅な理由ではありませんが…。
しかし、音楽家の私としては、やはり春の入学をこのまま続けてほしいと思います。ソメイヨシノの桜吹雪に見送られる卒業式、そして八重桜の入学式。どちらも服装を正して、家族も共にお祝いをします。これも日本の文化で、あまり他国ではこのような式典やお祝いはされないようです。桜と共に行なわれるこれらの式典は、日本人の感性にとてもあっていると私は思うのです。
日本の鮮やかな四季の変化は素晴らしいです。この刺激が、豊かで高度な文化を生んだ事は、実に幸せだと思います。「幸福道の原点」です。
鮮やかな四季の移り変わりは、豊かな感性を育み、世界最古最高の「ことば」や「書」も生んで来ました。古事記、日本書紀での日本誕生物語りは元より、その後の源氏物語の時代には、「漢字(多彩な書き方)」から「ひらがな」やがて「カタカナ」も用いた豊かな詩歌文学が開花し、長期に平和が続いた江戸時代には庶民の識字率も大幅に上がりました。
また日本では、読み・書き・算盤(ソロバン)など、生きていく為、生活する為に必要な事を学ぶ事の他、精神面の修練を重要な事としてみる文化、「道」を創りました。
例えば、「お茶を飲む」事は中国から伝わりましたが、それが「茶道」になると、「茶を飲む」ことが大切なのではなく、その形式、茶道の心=「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の心が表現される事が大切とされています。(和敬清寂の「和」は平和な関係、「敬」は互いに敬いあうこと、「清」は見た目も心も清い状態、「寂」は動じない精神を表します)
そして茶室では、金銭,性,ビジネスを話題にすることは禁じられ、自然や芸術の話題に限られます。
この様な事からも日本人にとって、「日本の四季」は、自然であると共に、芸術の分野でもあると私は感じます。
次に、日本の春の幸せなひと時を少し語らせてください。読者の皆さんも私と同行した気持ちで、幸せなひと時を味わって頂ければ幸いです。
春の夕暮れ時は二次元の世界。絵に描かれたように平面な夕陽に、茜の空に映える黒い富士山のシルエット。穏やかで、それでいて新しい息吹を感じる早春の宵。私は若草色の薄手のセーターにベージュの靴といういで立ちで、小料理屋の暖簾をくぐりました。
通いなれたいつもの店で、いつもの女将。でもなんだか新鮮で心が弾みます。
“いらっしゃいませ、どうぞこちらに”
席に着きテーブルを見ると梅や鶯が描かれた和紙が敷いてあります。
“春だね~”
“陽が温かくなって来ましたよね”
“うん、温かくなって草木も芽吹いて来たね。なんだかこの時期は、人生もまだまだこれからだって思えるよ”
それを聞いた女将は、黙って手元の小花を私へ向けました。ハッとする新鮮な香りが迫って来ました。
春だ~ フレッシュだ~ 始まりだ~。
人生はいつだって新鮮なのです。季節を意識すれば尚更です。挫けそうな時、先が見えない時、また人生に飽きてしまいそうな時、そんな時こそ、“人生はいつだってこれから”だと想える心を持ちたいものです。
春は、来年もきっとやって来ます。再来年も5年後も、変わらずにやって来て欲しい。
四季の変化を常に新鮮にとらえられ、その繰り返しが、安定してやって来てくれる事に、「感謝」致します。
“変化の新鮮さ、それと同じ事の繰り返しの安心”人生はそれの繰り返し…。
お釈迦様は、“人生は四苦八苦”と教えを説かれましたが、“人生は甘美だ”とも、おっしゃって、あの世に戻られたそうです。
“人間万事 塞翁が馬(にんげんばんじ さいおうがうま)と言います。人生で、不幸だと思った事が実は幸せにつながっていたり、またその逆も然りです。
全てが悲観的に見えてしまう時も、希望を失わず、明るくなる人生を思い描いてください。
それが幸福道につながります。
そして、小さな幸せを見逃さずに心の灯、糧としてください。
やっと山頂に登り、日の出を拝んだ時、久しぶりの海で水平線に穏やかに沈む夕日を眺めた時、満開の桜や桜吹雪を見られた時、ビルの隙間から富士山が見えた時、あの人から満面の微笑みをいただいた時…。
全てに恵まれて不幸など無いように見える私ですが、私だって不安だったり辛い時があります。ですが、辛い日の翌朝、ビバルディの「春」を聞いた時…幸せだぁ~と感じるのです。
そして本校の卒業式では、先生方が演奏する“仰げば尊し”に震える答辞の声。“ワンダフルモーニング”の手拍子の熱い波で旅立つフレッシュマン達…シュトラウスホールは幸せなサウンドと想いでいっぱいになります。私はそれに幸せを感じます。
どんな時も、様々な幸せが皆さんの周りにきっとあります。まずそれを感じる事、見つける事が、幸福道への第一歩だと私は思うのです。