月刊ハーモニー2020年5月(605)号掲載
【幸福道2】
新堀寛己の健康長寿考
人生について
始めにこのコーナーのタイトルですが、先月4月号では、「視点151」の「幸福論」として発表しましたが、このテーマについて続けて行きたいと思い、「視点」ではなく「幸福道」として、今後書き進めて行きます、どうぞご了承ください。ですので、先月のタイトルは「幸福道1」の「幸福道の基本」に改めさせて頂きます。
さて、今回のテーマは“人生について”です。
“人生について”一般的には、この世に生を受け成長し、そして若さ・力溢れる生命(エネルギー)が徐々に弱くなり、やがて死(無)に至る、と思われています。
高齢になり確実に衰えて行くのは、主に肉体(筋肉・体力・皮膚・骨密度等)です。しかし、年齢を重ねるごとに人間の全ての機能が衰えて行ってしまうと考えるのは、違うと思います。
例えば脳ですが、これは鍛え、磨き続けている限り、むしろ年を重ねるごとにハイクォリティな掛け替えのないものに成長を続ける事が出来ると思います。
人生のゴールは、終わり・死・無ではなく「成就」と考えています。その人なりの時間と姿で、そこまで成就(達成)したという考え方です。その人なりに達した所がゴールだと思うのです。
山登りをしていて、5合目で見る風景と、8合目で見る風景が違うように、60歳でないと味わえない世界があり、70歳だからこその世界があると思います。
私は、あと数日(2020年4月17日)で86歳になりますので、そこまでの世界しか知り得ませんが、ほんの数年前の84歳の時と比べると、サウナの快適な入り方もだいぶ変化しましたし、シャンパンのハーフボトルで70歳の時とは酔い方が変わっている事にも驚いたりしています。
しかし、美女にビビッと来るのは30代の時と同じですが、知的なお色気の奥行の面白さに気付くのは70歳代よりも今の方が敏感かもしれません。
それらは幸福感・高揚感となっています。もちろん脳が反応しているわけで、それも理屈で考えて(左脳)反応しているのではなく、直感・感覚(右脳)として反応しています。
「素晴らしい幸福感がみなぎるのも、また失望感に覆われてしまうのも、全てが脳の感じ方次第」なのです。
19~20世紀の「文明」では、科学・理屈(左脳)で解けないものは、後まわしか、正しくないものにされてしまいがちでした。特に科学の分野では何事も細かく分類して、どんなものにも順位・優劣をつけ、それが教育の分野にまで及びました。これが全てのモノサシであると考えてしまう事が、人間自身の幸福道を見失うどころか、人類そのものの生存すら危ぶまれる事態を引き起こしてしまっているのではないでしょうか。
創造主・神がお創りになった幸福感脈打つ右脳中心であった本来の“人らしい生き方”に戻さないと、黒い雲が立ち込めてしまう恐れが近づいています。
90歳代で詩人となった柴田トヨさんの詩集『くじけないで』の「そよ風は誰にも平等に吹く」の一節が、今の私には特に強く深い幸福感を呼び起こし、拝読する度に「幸福道としての柱」の存在に全身が震える感動を覚えます。
そして森繁久彌さん(立花茂造役)主演の『恍惚の人』のワンシーン。茂造(重度の痴呆症)が、雨の中に咲いた真っ白な泰山木(タイサンボク)の花に、じっと見入ります。幸福そのものの人らしい表情で…何もかも分からなく、何もかも出来なくなってしまった恍惚の人…。左脳的には失格人(しっかくびと)が、花の美しさに吸い込まれる様に見とれて、人らしい優しい表情となった目・ほほ・口、肩、愛しそうな手首…、そして、さんざんこの老父(舅)に苦労をさせられた照子さんですが、この姿に心を打たれ、茂造の背後からそっと傘を掲げます。このシーンには涙が止まりません。幸福感いっぱいです。茂造は重度の認知症だから純真無垢な子供のような姿に戻ったのでしょうか。
2020年4月の創立記念日で、私が新堀ギター音楽院を創立して63年目に入ります。それまでの年月には、ウィーン楽友協会大ホールでの成功やウェストミンスター王家から爵位を授かった輝かしい栄光等と並んで、たくさんの苦難もありました。
中でも創立30年目、直営教室の生徒さんだけで9700名の時、私は50歳を超えたので、全国の新堀グループを4つの会社に分け、各社長に財も譲り、私は学校法人だけを担当するようにして、僅か18ヶ月後、その内の一社が地上げ詐欺集団に騙され倒産してしまいました。
私も迂闊ではありましたが、その社長から報告を受けた時には、新堀家代々の土地(東京本院)の権利書まで無断で持ち出され、その上、白紙の約束手形まで地上げ屋に渡っていて、私の家族(子供の誘拐等)への影響までの可能性があるので、暫く身を隠しなさいと弁護士に言われ、毎日レンタカーでの逃亡生活を余儀なくされました。(後に分かった事ですが、この弁護士も地上げ屋とグルであったようです。)
幸い有名ホテルチェーンの友人が手を貸してくれ、毎日各ホテルから全国に指示を出す作業が叶い、連日移動するという想像を絶するストレスの生活が続いたのです。
後ろからの車に猛烈に神経を使いつつ移動をしていたある日、懐かしい?自宅の近くにやって来ました。私は夢中でハンドルを切り、ひっそりと懐かしい路地に進み、リモコンで車庫のシャッターを開けてその中へ。久しぶりの自宅…2階へ上がり、リビングルームのドアを開けた瞬間、光の洪水が全身を覆い、思わず立ちすくみました。なんと明るい美しい光いっぱいの住まいだった事か…今まで主(あるじ)を静かにじっと待っていてくれたのかと、思わず部屋に頬擦りしたい衝動にかられました。そして“わあ~ん”と安堵感と幸せ感が湧き上がって来たのです。何が起ころうが、もう逃亡生活はご免だ、この自宅に居たい!…私は夢中で、御用邸前の警察署に駆け込みました。
私は1934年(昭和9年)に現在の六本木(当時の麻布区市兵衛町=あざぶくいちべいちょう)に生まれ、3歳の時に、神社仏閣の設計・施行の棟梁であった父・新堀辨造(べんぞう)が暮らす東京都杉並区阿佐ヶ谷(当時の馬橋)で育ちました。音楽院を創立した地です。3棟が建っている広い土地に親族・職人・使用人も含めて14人を超える大所帯でした。 杉並第六小学校3~4年生(10~11歳)の時は、太平洋戦争でした。
1945年(昭和20年)に終戦になりましたが、戦時中の悲惨さは語りつくせません。杉六小の子達は宮城県名取に集団疎開をしました。お寺に疎開して夕食のお手伝いをしていた女の子(妹も疎開中)の頭にも直撃弾が落ちました。空襲の他にも、時限爆弾が絶えず爆発して睡眠を取らせない攻撃も続きました。爆撃機が各所を破壊し燃やした後に、今度は艦載機がやって来て、生き残りの一人ひとりを狙い、撃ち殺します。野良仕事に出ていて逃げ遅れた高齢者の背中目がけての機銃掃射のむごさは日本人男子、小学生でもムラムラと憤りを覚えました。現在よりも飛行機のスピードは遅く、操縦している赤鬼・青鬼(米国人の事)の姿は、目視する事ができました。
敵機がやってくる直前、空襲警報は断続的に鳴ります。ブー、ブー、ブーと聞こえたら全力で防空壕に突進し、くぐって滑り込みます。雨のしとしと降る寒い日は、特に辛かった。空襲は時には何時間も続き、おしっこを漏らす人も出ます。灯りはありません。天井からのしずくと嫌な匂いで息がつまります。終戦が近い頃には、誰も話をしなくなりました。なんと子供たちもです。
“プー”長いサイレンは、待ちに待った幸福の瞬間です。敵機が去ったというより、“生きていたぁ~、よかった~”と思いました。
外に出るとブァ~バ~ンと太陽が全身に注ぎます。余方(疎開先)の山の分教場(2室)の小さな校庭には、美しく優しい柳の長い枝がゆっくりと揺れています。太陽の光の列が子達のように戯れて、僕を慰めてくれました。
平和がいっぱい、いっぱ~いだぁ~。
幸福がいっぱい、いっぱ~いだぁ~。
幸福って誰がつくるんだろうか。
つくる人になれたらどんなに嬉しいだろう‼
みな集まれ~集まれ~…。
♪むかし、昔、そのむかし~ 椎(しい)の木林のすぐそばに~♪
相当大きな声で歌いました。
皆で歌うと、どうしてこんなに楽しいのか、嬉しいのか、幸せだぁ~。
“そうだ、僕は音楽家になろう”絶対なるんだ~。
そして50年以上が経ちました。
新堀幸福園は今も熱く建築中です。
86歳になりました。
遺言書も書きました。
「お別れの会」ではなく「出発の会」にしてください。お許しが出れば「守護神」への道へ出発したいのです。場所は、うちの“シュトラウスホール”がいいなぁ。だって彼(シュトラウス)の音楽の生活化の生涯とピッタリだから。
ここでの神葬祭は、60年来のご縁がある山本行德宮司さん(國學院大學ギタークラブの創設者・リーダーで、音楽院を創設したばかりの私をコーチとして招いてくれました)にお願いしたいです。
人は生まれた時は善で清いのですが、様々な事で徐々に穢れてしまうので、穢れをお祓いできる神道が好きです。
山も岩も樹木も釜戸の火も、何もかもに神が宿り、感謝をするという想いは、幸福道そのものです。
夕焼け小焼けの歌にある様に、みんなで手をつないで、カラスも一緒に帰りましょうと、平和心と幸福道を歌う子供達、そのように導く両親・町・国…。
なんと素晴らしいユートピアか、幸福道真っただ中…。