日本では今、「ガチャガチャ」=カプセルトイの第4次ブームだとか。お馴染みの「新堀ギターの看板」ガチャ=新堀ギター金属看板ボールチェーンは、2023年(令和5年)6月現在、全国的に品薄(売り切れ)になり、第2弾はデザインを変えて2倍の規模で10月に発売予定との事。
5月24日に、「新堀ガチャ」は日本テレビ系・朝の情報番組「ZIP!」の流行ニュース「キテルネ」でも取り上げていただき、実に嬉しいです。各地の “新堀ブランド=新堀ギター” のチームは、この追い風にも乗って、コロナ後を快走していただきたいと思います。
それにしても、「新堀ガチャ」第1弾・5種類の内、一番人気があるのは、ヴィンテージ感を出したサビ付バージョンのもので、これが出るまでコインを入れてガチャガチャやると聞き、非常に驚きました。京都・福知山,会津若松,横須賀,千歳船橋では、「新堀ガチャ」を買い占めて周りに配るOB・OGもいるそうです。また私に、この「新堀ガチャ」にサインを求める人もいたりします。
テレビでは、この「新堀ガチャ」の元となった新堀ギターの看板は、「“昭和のノスタルジー=昭和の景色”となって人の心にぬくもりをもたらしている」などと紹介されていました。
そう言えば、TVのウルトラマン・シリーズやゴジラの映画などで、怪獣が壊しまくっているビル横の壁にもこの「新堀ギター」の看板があったり、チョコレートのCMで、タレントがベンチを立つと、あの書体で 「古堀ギター」 の看板があったり、昭和の景色を再現したバラエティ番組にさりげなく「新堀ギター」の看板があったりします。それほど昭和を代表する日本の風景の一つになっているのでしょう。
新堀ギター音楽院を立ち上げた当時に、私が手書きした文字が、あの看板の元になっています。
青年・新堀寛己が手書きした下手くそで、今となっては古びた文字が、どうして60年以上も生き続けて来たのでしょうか? あの文字には “ぬくもりがある!” と言われます。
終戦が1945年、私が新堀ギター音楽院を創立したのが1957年(戦後12年)で、長嶋茂雄が巨人軍に入団し、日本観測隊が南極大陸に初上陸した年でした。
新堀ギター音楽院を立ち上げた時は、資金もなく、生徒さん募集・宣伝の仕方もわからなかったので、生徒さんはなかなか集まりませんでした。しかし大きな夢は持っていました。それは「ギター合奏」の実現です!そして1960年、銀座の「テアトル東京」で観たシネマスコープの映画「ベン・ハー」の巨石文字として描かれたタイトルを見て度肝を抜かし、それを元に書いたのが、あの新堀ギターの看板だったのです。
溢れる情熱を持った青年(25歳)・新堀寛己の熱い夢が表現された文字であることは確かです。
もう20年くらい前でしょうか、伊豆の日本ギター専門学校(S校)が全寮制で運営されていた時で、静岡地区では学生が教育実習生として教室活動もしていました。そして、当時は私が直営教室の視察を全て行ない、教室周辺に張られた看板も、教育部の代表者と各教室担当の先生や教生と一緒に見に行ってチェックしていました。
そんな時、「先生、ぜひお連れしたい所があるのです」 ということで行ってみる事に…。
そこは小田原市の中心地からは離れ、田んぼや畑が連なっている辺り。車の助手席から、ふと向こうに目をやると小川が流れ、そこへ向かう小道を右に曲がると、橋の向こうに古民家が現われ、真正面にあの 「新堀ギター」 の看板が迫ってきたのです。それは手入れが行き届いたピカピカな看板で、私は胸がキューンとなりました。
そこは老夫婦が営んでいる小さな店(よろず屋)で、ここが目的の場所でした。
茶色になった畳に店の年輪を感じました。
“何にもありませんが、どうぞ”
と、お店の傍らで焼き上げたばかりの「たい焼き」を出してくれました。
S校のA君が、
“先生、僕らはいつもここで一休みさせてもらっているんです”
と誇らしげに私に言いました。
そして、こちらが頭を下げてお礼を言う立場なのに、このお店の主は、
“校長先生(私の事)、若い学生さん達は実にエライ!この暑いさなかに看板をかついでやって来て、いきなり何と言ったと思いますか? 「僕らはいい音楽を町中に広げたいのです!」と言ったのです。そして、私ら夫婦が一度も聴いた事がないギターのコンサートに招待してくれたのです。もう感激して~”
と目に涙を浮かべて言われました。
この事で、1枚の看板が人とのつながり=「人間ネット」をつくり、温かい聴衆を作っていくのだと、しみじみ思いました。
1977年、新堀ギター音楽院創立20周年記念イベントで、日本武道館での「1万5千人の集い」(実際の来場者数は約17,500人)で、300人のギターオーケストラがヴィヴァルディの曲(「海の嵐」等)を奏でる事が叶ったのは、こうした一つひとつの人間ネットワークづくりがあったからだと思います。
当時の先生方の月間報告書の1項目には、教室を中心に半径3キロ内に、緻密に今月のネットワークづくり(看板張りなど)が明示され、看板の向き(矢印)まで赤ペンで記されていて、私は看板の張り方(方向・角度)まで指導できました。
生徒さん募集のためのメラミン看板(メラミン樹脂で加工されたブリキ板)を業者さんに作ってもらえるようになるまでは、実にひどいものでした。
前述しましたが、私は昭和32年(1957年)に青山学院大学を卒業し、高校の教師にも採用していただけましたが、自室(建て増ししたバラック小屋)でギター教室を始める事にしました。実は学生時代は英語塾をやっていて、そこには生徒さんが口コミでたくさん集まっていました。ですが私としてはギター・音楽に力を入れたかったのです。
新堀ギター音楽院を始める時、まず看板が必要だと、お隣の八百屋さんからいただいたリンゴの空き箱を分解した細い板(幅7センチ,長さ60センチ位)に「新堀ギター音楽院」と筆で書き、教室の右角上に掲げたものの3ヵ月が過ぎても誰も来ません。…それは今から思えば当たり前で、この場所は大通り(青梅街道)から脇道に入り、そこから更に小道に入った敷地の奥。まったく人目につきません。
そこで考えました。ガリ版でビラを作ってみよう!と。
ガリ版=謄写版の事です。これは昭和生まれの人は知っているのではないでしょうか。
原紙(ロウをひいた雁皮紙)をヤスリ板の上に敷き、鉄筆でガリガリ書くのです。書いたところが「透かし」になります。そしてこの原紙を木枠に張り、原紙の上にインクを塗り、下に紙をおいて、上からローラーで押さえると、「透かし」部分の文字や絵の部分だけがインクを通し、印刷されるのです。
私は高校の教師をしていましたから、テストの問題や生徒に配るお知らせ作り等でこの作業になれていました。
それでなんと、女房(銀座の大倉商事勤務)の最初の夏のボーナスは、全部このガリ版のための機材一式を購入するのにあててしまいました。(彼女は高校時代、私が器楽部を立ち上げた時の副部長で、その時から音楽活動を応援してくれていました。そして大学卒業後すぐに結婚しました。)
ガリ版で生徒さん募集のビラを作ることができました。とは言え、1枚1枚手刷りですから、無差別に配れるほどの枚数はありません。そこで人目のつくところに貼る事にしました。
うどん粉(小麦粉)で、ビラを貼るためのノリを多量に作り、それを小さなバケツに入れて、自転車のハンドルにかけ、A4サイズのわら半紙に刷り上げた「新堀ギター」のビラを貼りに、いざ出陣!
ところが、どこに貼るのかを考えていませんでした。あたりを見渡すと、電柱に様々なビラが貼ってあることに気付きました。これに便乗させてもらいました(現在、この様な事は禁止です)。
貼った宣伝物を眺め、
“いいじゃないか!”
と、ほくそ笑み、作業を進めていきました。
要領を得て、調子があがっていた時、背後から声を掛けられました。
“あの~……、あのう、ギターを習いたいのですが~…、新堀先生ってどんな方でしょうか…”
ビラ貼りの作業で、両手はもちろん、顔まで迷彩服模様になっていたヒロキ(私)は、「新堀は私です!」と名乗る勇気はありませんでした。しかし内心では 「よくぞ聞いてくれました!」 と飛びつかんばかりの嬉しさいっぱい!
ところで、どうして私が迷彩服模様になってしまったのか、少し説明します。
当時の電柱は木製です。大抵その表面はザクザクのデコボコで、そこに横幅13センチの刷毛にたっぷりとノリを付けて電柱にこすりつけると、汚れとインクを含んだ液体が飛び散ります。これが自分にもかかります。そして、印刷物を電柱に貼り、両手でペッペッと何度も押し付けると、インクが手につき、黒ずんだノリが更に飛び散るのです。しかし、宣伝の成果はあったのです!
やがて電柱よりも、もっと人目に付くにはどうしたらよいか、ビラを貼れる平らなところはないかと考えました。(当時、舗装道路は少なく、特に脇道は砂利道でした。)
“そうだ!アッター”
…しかし、これはとんでもない発想だったのです。
それは国鉄(現在のJR)の駅の床だったのです。
“始発前なら駅員もいないだろう”
と、超汚れた戦闘服に身を固め、出来立てのうどん粉ノリを自転車のハンドルに下げ、駅に向かったのは午前4時前。
現場は予想通り人影無しで、猫一匹を確認!私はひっそりと、改札を出てすぐの平らなコンクリート床を丁寧に掃き、雑巾がけをしました。
そこにドボーンとうどん粉ノリを敷き、ペッペッと例の新堀ギターのビラを貼り付けたのです。そして、すぐに現場を離れました。
日が昇りました。自宅で身を整えました。
電話は鳴りません(当たり前です。まだ電話をひく資金がかったのです)。
地図はビラに書いてあります。
それで…ナント、ナント! 入学者が多数ありました!
うれし泣きの夜でした。
つづく