成功する人は“努力の2倍も幸運に恵まれている”と言う説があるかと思えば、“大成功の裏には、すごい努力、数えきれない位の失敗の積み重ねがある”とも言われます。
ノーベル賞受賞者では“偶然、幸運な発見があった”と語る人が多いように思います。勿論、長期に亘る寝食を忘れての研究が、そのような偶然=幸運を呼び込んだ事も事実でしょう。
幸運としか言いようのない話から、まず紹介します。
かつて僕が国立(くにたち)音楽大学のギター科の講師をしていた時代の話です。
僕は授業を終え、車で帰路につきました。五日市街道では、行き交う車は皆そこそこのスピードで、車間距離はかなり狭かったのですが、ドライバー達のリズムが良かったので、快適に走っていました。
その流れの中で、ふと僕の2台前の車が対向車線に出て、追い越しをかけ始めたのです。すると背の高いダンプが流れよりもスピードを上げて向こうから迫って来ました。
ドカーン グチャー ガラガラー
あっという間に黒のセダンは180度回転し、右ボンネットが潰れ、そのままダンプと塊となって恐ろしい勢いで僕に向かって来たではありませんか~…
“ワアッ~!! ”
夢中で左に急ハンドルを切ったとたん、頭の上にコンクリートの電柱が迫って来ました。
“タッタッ 大変ダーッ!”
更に左にハンドルを切ると、人道に跳ね上がり、民家の垣根に突っ込み、前輪が浮いて止まりました。
目の前には、子供をしっかりと抱きしめている人が…
“オバ オバサーン デンワ デンワ……”
呼びかけても、オバさんは台所の横を懸命に指さしているだけで、ピクリとも動いてくれません。
僕はドアを蹴り、土足で電話口へ…。
“もしもし、事故です!多重衝突です!…”
事故現場に目をやると、グチャグチャの車とダンプは僕の車のすぐ後の車に更に衝突したようで、その車の運転席は潰れ、後のドアが外れ、座席ごと3人が人道に吹っ飛び、その後ろの車まで残骸に突っ込んでいました。
すぐに2台の白バイが到着し、救急車は次々に3台…。
警官に“あなたは、なんと幸運な人か…”と言われました。
民家の塀は土を盛り、その上に垣根をつくってあったもので、この柔らかい土が僕の命と愛車セドリック(当時、鉄材を最も多く用いた頑丈な重量級の車)を守ってくれたのでした。
後輪は人道のコンクリートを噛んでいたので、白バイのお兄さんの手招きで、この007映画の1シーンの様な事故現場を後に、無事に帰宅する事ができました。
僕は、戦後間もなく昭和32年(1957年=今から64年前)に、高校の教員をしながら新堀ギター音楽院を創設しました。元々は勉強部屋として父と一緒に手作りで建て増した四畳半のバラック小屋で、その場所(杉並区馬橋=現在の南阿佐ヶ谷)は、国鉄(JR)の駅から遠く、大通り(青梅街道)から路地に入ったところで、人通りも少なく、全く目立つ場所ではありませんでした。そこに“新堀ギター音楽院”と手作り看板を出したのですが、入学者が一人もないままに数ヵ月が過ぎました。僕は教室の宣伝方法も分からなかったのです。
何人もの著名なギターの先生の下で学んでいましたが、自分自身は無名の無資本。あまりにも入学者がないので、さすがにこれではマズイ!(父は公務員で、当時は僕のギター音楽教師としての期待は薄かったと思います)と、ガリ版刷りのチラシを作って、電柱に貼ったりしていました(現在は違法ですが…笑)。その文面も、流行歌全盛時代に「教育用ギター教授」などと書いて…(新堀式のギター合奏、ギターオーケストラなど、存在していない時代です)。
宣伝活動をするようになって…特に看板に自分の信念「心の糧になるよい音楽を」と出すようになってから、生徒さんは増え続けました。
創立2年後(1959年)には4畳半から飛躍し電話も引けました(この年にはA.セゴビアの来日もありました)。1960年にはハーモニー誌が発行され、1962年には2階建ての音楽院で、区内で生徒数トップの教室となりました。
そんなある日、繁下和雄君という青年(学生)が訪ねて来ました。
当時僕は、初めて来た人に「ギターを通して心の糧となる音楽を広めたい…」と信念を語るのが常で、いつもの様に熱く語っていると、彼は、
“私は国立音楽大学の教育音楽学科(現・音楽文化教育学科)の学生(学校の音楽教師の卵)なんです”と言うではありませんか。そこで僕は嬉しくなって、
“これからの日本は、ギターを中学や高校の音楽教育に取り入れてほしいんだ。ピアノ以上の長い歴史を持つギターを、一時の流行ものとして扱うのではなくて…”と持論を熱く語りました。
それから数週間後に突然、国立音楽大学から呼出しがあり、話を伺うと
“2年間の無報酬実験授業をしてみてください。その結果次第ですが、あなたの提唱するギターの授業メソード(ギター合奏)を取り上げるかもしれません”という内容でした。
先日の繁下君(後年、国立音大の教授,副学長となる)が、同大教育音楽学科の岡本俊明教授(「どじょっこ ふなっこ」の作曲者、当時の日本の音楽教育の第一人者)に、
“阿佐ヶ谷に、「ギター教育の事、学校でできるギターのメソード」の事を熱く語っているギターの先生がいました”と伝えてくれた事がきっかけとなったのです。
更に幸運だったことは、岡本先生が音楽家になる事を決意した理由は、お兄さんが奏でたクラシックギターの音色に惚れた事で、しかもその感動した曲はジュリアーニの「アレグロ・スピリット」だったという事まであげて、僕と話したいと…。
更に幸運が続きます。当時、戦後の中学・高校の音楽授業に、国(文部省)は、クラシックギターを取り入れるか否かを検討中でした。その中心人物が、花村大先生(当時の文部省教科調査官)であり、その花村先生は国立音大の役員でもあり、私の実験授業も詳しく掌握してくださり、国の方針として授業にギターを導入する事が決まったのです。
まだ幸運が続きます。この事がきっかけで「全国教育ギター連盟(ZKG)」が結成され、教員免許を持っている現役の音楽の先生達へも、ギター合奏の指導が開始されたのです。
会長は国立音楽大学学長の有馬大五郎先生、理事長に新堀寛己が抜擢され就任しました。その後ZKGは現在のNKG(日本教育ギター連盟)となり、新堀寛己会長,小林清伯理事長で今日に至っています。(これら歴史の詳細は著書「愛のサウンドを広めて」に掲載されています)
このように幸運が重なって、歴史の道、発展の道=幸福道が作られて行ったのです。
時は流れ、音楽院創立から64年が過ぎ、今2021年は、世界がコロナ禍にあえぎ、東京オリンピック2020が1年の延期後、オリンピック史上初めての無観客開催となったという、歴史に刻まれるエポックな時となりました。
人と人が絆をつくる密は自粛され、歓声をあげる事は抑えられ…、御多分に漏れず、合奏が大好きな僕達も大打撃を受けている真っ只中です。ギターオーケストラや合奏団の活動もままならず、人々が集うイベントも制限されて…、「幸運」はどこかに飛んで行ってしまったかのように…。
しかし、しかしです。一条の光を見つけつつあります。
人が音楽で癒される事が無くなったわけではありません。むしろこの様なテレワーク、ステイホームの時だからこそ、素敵な音楽で人間力、幸せ感、幸運を呼ぶ気運が高まっているのではないでしょうか。
そこで、2回目のワクチン接種を終えた僕は、消毒済みの小回りの利く車(愛サン=BMW ⅰ3)で、こちらから出向く事にしました。幸運を待つのではなく、見つけに行くのです。
すると僕の予想以上の好運=幸運がありました。
新堀ギターの信念を伝えやすいビルを見つけたのです。
今までの教室があったビルは駅から徒歩3分ですが、酔客もゾロゾロの大通りから路地に入った目立たない場所。そして今度見つけたビルは、駅から徒歩10分位かかるので不動産価値は下がり、家賃も減。テレワーク、ステイホームの現在、駅に近い必要はないでしょう。パソコン仕事に疲れ、狭い空間で息苦しくなった人達が少し歩くと、家(住宅街)の近くに新堀ギターがある。それも市役所のそばで、安心できる環境。
このビルの前オーナーは学研ひまわり教室の主催者で、新堀ギターがやって来る事に大賛成でしたが、先約がいて、初めは断られてしまいました。僕は新堀ギターの生徒さん、先生方のためばかりでなく、市や町の近隣の人達の心のオアシスづくりをしたいと、何度も頼みました。猛烈に暑いさ中、こちらのスタッフも必死に頼んだのです。そうしているうちに、一番手の人が無しになり、ついに二番手の僕にOKが出たのです。
“やはりニイボリさんに、このビルに来てほしい”との事でした。64年のブランド力は今回も幸運を呼びました。
ここ、船橋教室は、ぜひ地元出身のギターアンサンブルTwinkleと共に、更に幸運を呼んで欲しいと願っています。
移転リニューアルオープンの垂れ幕には、“生きがいづくりのお手伝い”の文字を入れて欲しいと、管理部のK先生にお願いしたところです。